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家松人語 平成15年

当山第廿五世眞誉昌之上人が、寺報「家松(かしょう)」に毎月掲載したものです。

家松人語 平成15年12月号 第100号 

寺報『かしょう』を発行して百号をむかえることができた。
 毎月、月末に記事を書き、編集して一日に発行するのは大変な作業である。月によってはその月末には法事や会議などと重なり、夜を徹して発行へとこぎ着けたこともあった。
 檀信徒の方より、時々寺報の記事についての感想やご意見を聞かせて頂くこともあり、毎月届くのを心待ちにしてお読みいただいている喜びも伝わってくる。
 とにかく百号を檀信徒の皆様にお届けできたことは、大変喜ばしいことと感謝している。
 さて、先日NTTの案内より次のような電話があった。「大徳寺さんですね。コレクトコールの案内ですが、北村さんから電話がはいっています。お継ぎしましょうか」心当たりがないのでお断りした。最近このような電話が多くあるとも聞く。
 ご存じのようにコレクトコールとは、承知した受信者が、その通話料を支払い、後日請求されるものである。知らずにつながれ通話すると莫大な通話料金を請求され被害を被る事となる。不景気で世知辛い世。あの手この手でいろんな商法が生まれてくる。年末のことお年寄りが留守を守るお家では、十分にご注意して頂くことをお知らせしておきたい。
 今年もあと残余。平穏無事で、除夜会を送り、ご健勝で新春をご家族でお迎えして頂くことをご祈念申し上げておきたい。        南無佛。

家松人語 平成15年11月号 第99号 

「馬肥ゆ、食欲の秋」を迎えた。
 熊も冬眠に入る前十分に食べてエネルギーを蓄えるという。
 戻り鰹やサンマが食卓に上がると食欲も進んでいく。
 先日、七日間隣寺で五重相伝会があった。五重の方も、最近寺方の夕食は無くなったものの、昼食は頂く。
 七日間、毎日「幕の内弁当」が続いた。最近、法事の後も、よく「幕の内弁当」を頂くことがある。
 いくら食欲の秋といってもこの歳となれば、胃のなかに入るのも限界があり、全て食べきれるものではない。幾ら美味しいものでも、残さざるを得ないのである。「たんのう」を切除した者にとっては、油っこい天ぷらなどは、ほとんど手につけないで終えてしまう。
 五重中の昼食弁当のおかずも手もつけずに残さざるを得なかった。勿体ない話である。
 そんなに残すなら、何も手につけずに終われば良いとの考えもあるが客人として接待をうける場合、いろんな考えが脳裏をかすめる。少しは手をつけた方が相手にとっても失礼でなかろうかなど。しかし、この残し物、特に手もつけない美味しいおかずは、最後どうなっていったか定かではない。戦争中に育ったものは、勿体ないという気持ちが先にくる。「幕の内弁当」より、自分の好みをお皿にとって「食欲の秋」を楽しむ方がよほど身につくのではなかろうか。

家松人語 平成15年10月号 第98号 

十月に入り、急ぎ足での秋の深まりを身にしみて感じられるようになってきた。
 この秋の訪れとともに、庭のキンセンカの花の香りが、我々の心を一段と慰めてくれる。このキンセンカは、寒さにも、暑さにも他の樹木と違い、どんな風雪にも耐え、強いことは皆様もご存じのことと思う。
 しかし、この強い木も、弱さを一つだけ持っていることを最近知ったのである。そのことは、汚染された空気(大気)には、実に弱く、いい香りを漂わせないとのことである。
 いわれてみると、先日、東京に行った時、綺麗な花を咲かせてはいるものの、その香りが漂ってこなかったのを思い出したのである。
 都会では、空気汚染のために、キンセンカの花の香りも汚染され失ってしまったのかも判らない。
 しかし、大徳寺の庭のキンセンカは、すばらしい香りを漂わせ、われわれの心を慰めてもくれる。
 この地の空気は、まだ汚染されていることはないのだと喜びを、改めて認識し、感じとったのである。
 われわれの心も同じではないのかと、ふと思った。
 朝のドラマ「てるてる」の赤ん坊春子は、純粋無垢の心だろう。
 年と共に、汚染され仏の慈悲の香りも、失ってしまっているのではなかろうか。お念仏で、心の汚染を浄化することに励みたいものである。

家松人語 平成15年9月号 第97号 

今年は、八月とも終わろうとする頃になり、夏の蒸し返しとなった。美味しい日本の米も不作とのこと。
 政府は、古米があるから心配はないとの談話であった。五十数年前の「堪え忍びは耐え」を思い出す。
 北朝鮮の核を取り巻くなどの問題。イラン・アフガンなど政情不安な国々。自衛隊の海外派遣など何か不安一杯の昨今である。
 地蔵盆を終え、ホッとする頃、親しい友人と日々お世話になった方が亡くなった。
 東奔西走した八月末であった。
 身近な人の死に直面すると無性に寂しくなるのは、私だけではなかろうと思う。友の葬儀の日に、近くにいる友を久しぶりに訪ねた。癌で八時間に及ぶ手術をした彼である。
 昨春の御忌法要の導師を勤めた時には元気に参列してくれたのだが、その影はなくやせ細っていた。
 癌で亡くなった二人と癌と闘っている友を見て、私だけはその心配はないと言い切ることはできない。
 幸い人として生を受けた身、一日々を大切に精進(はげむ)ことこそ、今の自分に必要なことだと気付かせて頂いた。
 その「はげみ」が仏教徒の真髄であり、法然上人のみ教えは、お念仏と共の「生き生きる」生活に帰着するものと考える。
 お彼岸を迎える。亡くなってられる先人、ご先祖を偲び、今の喜びを謝しお念仏の相続に勤めたい。
 お念仏の生活を送られたいと願う。

家松人語 平成15年8月号 第96号 

例年にない長い梅雨も終わり、お盆月を迎える事となった。七月の日照りが悪いと米の収穫も悪いと言われる。とともに境内の蓮も天候に実に敏感である。先日「蓮」の大家に見てもらったらまだいいと言われて一安心。我々には苦手な、夏の炎天が続けば、丁度お墓参りの頃が見ごろになるのではと期待している。
 夏休み前は、青少年の心痛むいろんな事件が起こった。先月の寺報で『社会に慈しみを』を取り上げた。
子供時代の人格形成で一番大切なことは『情緒面の形成』である。
 即ち、幼き時多くの経験の中で特に興味をひく感性を完成させ、善悪の判断を形成させる精神課程をつくる指導である。このことは、「親として長い人生経験を通し洞察された中から生まれてくる厳しさをもって指導し教えること」が[教]であり「個々にもっている感性の良さを引き出し、その子の個性を伸ばすために暖かさ、愛情をもって育てること」が[育]である。これが親としての子供に対する家庭教育であると考える。
 最近このことが薄れがちで、幼くして稀薄となり成長していく過程に欠如がある。その指導は、明るく仲のよい家庭でのお念仏の生活にある。
 ご先祖の陰を偲び反省する月でもある。これがお盆でもあろう。

家松人語 平成15年7月号 第95号 

先日、町内の告別式が最近はやりの斎場で行われた。その町内の方の勧めでその場所を選ばれたとのことである。
 確かに利用するには便利な施設であろう。詠歌講の皆様にお唱えをお願いされたので十数人が参詣され葬儀に詠唱を奉納され、お別れに相応しい花を添えられたのであった。
 全てが終わって、その職員から、詠歌講の役員さんに参列された講員さんの名簿が欲しいとの申出があり、記帳し喪主にでも知らせされるものと思い参列名簿を渡されたのである。
 ところが、その翌日参列しご詠歌をお唱えされた家を斎場の職員が訪問。
 その斎場の会員になって欲しいと勧誘にまわられたとのことである。
 商魂たくましい話である。断るのに一苦労したとのことであったという。
 その役員さんは、皆様に迷惑かけたと平謝りであった。
 幾ら不景気な時代とはいえ、死亡した時の告別式場まで予約して欲しいとは如何なものかと不愉快になった。
 やがては来る死別のこと。悲しみの中で、子供達親戚縁者が集い、住職とも相談しつつ野辺の送りをどうするか考えることが大切なことである。
 その斎場では、取り越しの初七日のご回向はあったものの、亡くなった人を追悼する食事の場もなかった。
 亡くなった人の生前の御徳を感じ、心に思い『往相回向』を行う期間が中陰である。余りにも、儀礼的な商売的葬儀告別式だけで済ませるやり方は、一考したい。情の薄れた話である。

家松人語 平成15年6月号 第94号 

梅雨の季節を迎えるとなぜか心が憂鬱になる。梅雨前線による、なが雨の精であろうか。先日こんな話を聞き何とも言われない心の寂しさを感じた。
 ある中学生の話である。ゲームセンターで遊んでいた生徒が、お金がなくなり、側でゲームに興じていた児童に、お金をせびる恐喝まがいの行動をした。
 店の人が、目にあまりその子を注意したら、反抗的な言動を繰り返したという。店の人は、腹が立ったのであろう。たしなめきれずに叩いたというのである。そのことを家に帰り親に話したところ、病院に行き診断書を取り、警察に訴えたという。結果は「叩いた」という暴力で店の人の罪は免れなくなり、慰謝料を支払うこととなった。
 最近この様な子供達の光景を目にすることもある。注意すべきか、見て見ぬふりをすべきか迷う。昔だったら、たしなめてゴメンで終わってしまったものである。
 この話を聞き、難しい時代になってきたと痛感した。子供達の目にあまる行為に大人としてどこ迄注意し、呼びかけてやればいいのか。
 未来ある子供達の将来を思い、注意することをしてはならない時代がきたのではと憂慮する。皆、「もちつもたれつ、共生き」でこの世にいる。社会の浄化、心の浄化を早急に、皆の力で成し遂げるには、一体何が大切かを考える時がきている気がするのである。
 心豊かな、暖かみのある世の中になるのは、何時の日となるのであろうか。
 これも、梅雨の季節の精であろうか。

家松人語 平成15年5月号 第93号 

先月は実に忙しい一ヶ月であったと共に、寒暖の差や晴雨の厳しい天候の月でもあった。こんな月も珍しい年ではなかっただろうか。その上、寺の行事もお葬式や年回法要。終わって総大本山での御忌大会(ぎょきだいえ)にご奉仕し帰宅したのが二十五日の午後であった。二十日余り続いていた咳や微熱のためか見事ダウンしてしまった。その日の夕方、無理矢理病院に送り込まれ、診察の結果『肺炎』で絶対安静の命を受けたのであった。すでに真徳寺の五重相伝会が始まっており、翌日随喜の予定であったができなくなった。  元来病気というものを知らない私であるが、今回の肺炎のは大きな衝撃を受け、床に臥す一日となった。お陰で熱も下がり、二十七日は五重の中日、午前中だけ真徳寺に顔をだした。  無理してはいけないと言われつつ義理も果たさねばならないのが、住職としての宿命である。  昨日も午前中五重相正伝法に随喜、終了後病院にて診察。完治していないが良い方に向かっているとのこと。一安心である。愛煙家の私であるが、ドクターストップで禁煙して七日目。その闘いで苦しい毎日。でもお陰で、寺報『かしょう』の五月号も、辛うじて発行することもできた。  如来の慈悲光に恵まれ、苦しい四月であったが、新緑薫る五月を迎える喜びを得ることができた。

家松人語 平成15年4月号 第92号 

四月を迎え、月日の立つ早さを感じる。大徳寺に入山して九年目となる。
 その間、檀信徒の皆様にはいろいろとご協力を仰ぎ護持運営にも軌道に乗りつつある感がし、喜んでいる。
 昨年の四月には、大本山清浄華院御忌大会(ぎょきだいえ)にご奉仕した御代理導師の準備に追われていたのも昨日のよう。
 何といっても子供達の夢と希望を膨らませるのがこの期の入学式である。
 甥姪の子や孫など大学高校中学小学校へと入学するのも多いと思う。
 その子達に何をお祝いしてやるかと考えると頭も痛むが、喜ぶ顔を浮かべては心もほころぶ。内の孫も二人小学校に入る。新しい机を前に喜びを満面に出す顔を見て、石ころから磨かれようとしているダイヤの感がした。
 子はダイヤや金にも勝る宝物だ。
 われわれの時代と比べ、何につけても恵まれている。その中、人間のもつ心を大切に育てたいと願う。
 人間のもつ『情』を幼くしてしっかりと身につけさせる「しつけ」が大切である。その中から他人を思いやる優しさの心が育まれる。
 決して「おしつけ」な指導では、この心は育っていかない。
 もう一度、子育てや孫の育て方も顧みる時もこの四月ではなかろうか。
 羊年、修正会で戦争が起こるのではと予想した通り「イラク戦争」が始まった。綺麗な群れをなす羊の中の伴う羊の精だろうか。平和や思いやりの心は「お念仏の日暮」より育まれる子は親家風の背をみて育つという。

家松人語 平成15年3月号 第91号 

三月を迎えた。毎年のことであるがこの月はとにかく忙しい。早々に浄土宗宗議会。春のお彼岸。一年の総決算と落ち着く暇もないのがこの月である。
 毎日、朝五時半ごろ、目覚めて起床するのであるが、日の移り変わりがよく判る。この季には、夜明けも日増しに早くなっていく。とともに鳥のさえずりも早くなってくる。春の訪れを感じさせるのもこの月である。
 毎年、大徳寺の庭でウグイスの初鳴きを耳にするのもこの月だ。しかし、日によってはとても寒い日もあり、暖房も放し難い日もある。「暑さ寒さも彼岸まで」とは昔の人はよくいったこの季の表現で感心する。ウグイスの声が待ち遠しい。しかし、連日のニュースは、明るさも乏しく、世界の情勢も混沌としている。
 突然にして何が起こるか判らない。
 しかし、日は過ぎていく。
 こんなことで良いのだろうかと思った時の訪れがお彼岸でもある。
 今の自分を振り返り、この世に生かされている自分を思い、正していくのもこの三月ではなかろうか。
 蜘蛛の糸でつながれた計り知れない無量なるご先祖の命を受け継いでいる今の私であろう。まさしく『無料寿』のお陰であるのだ。これこそが『阿弥陀』のみ力で生き生かされていることで、これを知らねばなるまい。
 ご先祖の墓前にぬかずき、報恩感謝の念で、この忙しさを乗り切り、励んでいきたいものと考えている。

家松人語 平成15年2月号 第90号 

二月は、お釈迦さまの入滅の月である。死を悟られたお釈迦さまは、故郷をの思慕にかられ生まれられた地を目指し最後の旅に出られ、途中八十歳で入滅されたのが八日であった。
 老齢を迎えるにつけ、故郷での幼き頃が走馬灯のごとく思い起こされるという。ただ懐かしみを懐古することになるのだろう。そんなことを思うにつけ、「浄土に還る」ということもうなづける。
 当山の将来を見据えて、あれもこれも成しておきたいと夢を追いかけてはいるのだが、気がせくばかりである。これも年度末を控えてのあせりであろうか。
 先日も、来客との話し中に、数回電話の取次があり、忙しい方だと印象づけられた。全国には、浄土宗のお寺が、七千ヶ寺余ある。その中で約五千ヶ寺余が住職をもつ寺で、他は兼務寺院である。僧侶の資格をもつ人は一万三千人もいる。新興都市の中には浄土宗寺院のない所もある。
 法然上人の八百年大遠忌を八年後に控え、それらの地に浄土宗寺院を設置する国内開教の課題など、一宗として山積する課題も多い。
 これらの事に関与させて頂き四年も終わろうとしている。まだまだ浄土の故郷へ還ることもできない今の私である。入滅前に、釈尊は弟子達に「はげめ」と諭された。今生の身『精進(はげむ)』ことが今の皆には、大切な生き方ではなかろうか。

家松人語 平成15年1月号 第89号 

作暮は、五人目の孫の誕生で喜び一入と思いのほか、義兄の逝去であの世に送らねばならなかった。
 突然、我が身に何が起こるか判らないのが人の道であろう。
 新春を迎え、この一年いろんな事が押し掛けてくることも覚悟せねばならない。喜びの訪れはともかくとして、悲しみ・苦しみの訪れに対しては、常に心しておかなければならないことである。そのために仏陀は『信の心』をもてと教えておられる。
 『信』こそは「まこと、人の善き伴侶であり、この世の旅路の糧(かて)であり、この上ない富み」「あらゆる功徳を受けとる清らかな手」「火であり、人々の心の汚れを焼き清め、仏の道に進もうとする人々を燃えたたせる」「人の心を豊かにし、貪(むさぼり)の思いを無くし、奢る心を取りさり、敬う心を育てる」と教えてられる。
 『信』は、常に仏の前にいるという思いを人に与え、仏に抱かれている思いとなり、身も心も和らぎ、人々に親しみと徳を与える心が備わることであろう。
 法然上人は、『お念仏』申し続ける精進(はげみ)こそが『信』も自然に備わっていく示されている。道が長い人生で、退屈な時の励ましとなり、悟りの境地へと導かれていくものである。
 『共生』で、生き生かされているお互いの身、お念仏の生活で、健康に留意して頂き、明るい豊かな一年である事を祈念してやまない。

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